「変なおじさん」と客観性について

こんにちは、はまじまです。

「変なおじさん」は好きですか?

「変なおじさん」と言っても、もちろん、志村けんのそれではない。

街にいる、野良「変なおじさん」のことだ。

野良「変なおじさん」は、血統書もなく、予防注射もしていないので危険だ。

リアルな世界に存在する「変なおじさん」は、テレビには出てこない。出れない。

町にいる「変なおじさん」は、力強くって、説教的。存在感も、圧力も半端ない。

同じ空間にいたら、雰囲気だけでその存在に気づく。

いつも怒っている。

しかし、飲んだらご機嫌。

「変なおじさん」を定義する

と、人ごとのように書いたが、私はすでに「変なおじさん」予備軍である。

いや、もう「変なおじさん」かもしれない。

そもそも、何を持って「変なおじさん」になるのだろうか。

私の中の「変なおじさん」の定義がある。

それは、「自分が「変なおじさん」だと思っていない」人やその状態である。

自分は「正常なおじさん」であり、「変なおじさん」ではない。

自身の正しさは絶対的だと思っている人。

それが、「変なおじさん」だ。

「変なおじさん」は「変なおじさん」ではない

気づいた人もいると思う。

志村けんの「変なおじさん」は、自分で「変なおじさん」と連呼している。

「変」であることに気づいている。

私の定義では志村けんの「変なおじさん」は変なおじさんではない。

自分で自分を「変なおじさん」と言うということは、客観性がある。

自分を「変」だとわかっていることは、主観的に世界を見ているだけではない。

客観的な目で自分や世界を見ている。

客観性のあるなしがすべての分かれ目になると思っている。

自分の中の「変なおじさん」が暴れだす

ある日、私は小学校の横を通っていた。

少年サッカーチームが練習をしていた。

教えている人はサッカー経験者ではないようだった。

おそらくサッカー経験はないが、「若いから」というくらいの理由でコーチを任されているのだろう。

そのコーチがまったく違うように指導していた。

「インサイドキック」を教えていたのだが、まっすぐ蹴れている子が一人もいなかった。

どの子もまっすぐ飛ばず、横で蹴っている子のボールとぶつかっている。

玉の多いピンボールのようになっていた。

オレが教えてやるよ

その状況を見て、私は「おいおい、違う、違う!オレが教えてやるよ!」と行きたい衝動に襲われた。

大きなお世話な「正義感」が出てきたのである。

もちろん何もせずに、衝動はおさえた。

実際に行動を起こして小学校に入り込んでいたら、完全に「変なおじさん」である。

出世魚であれば、「浜島裕作」から「変なおじさん」に名前が変わっていただろう。

私は「オレが教えてやるよ!」と言いながら学校に押し入り、サッカー少年たちが怖がっているのもわからずに蹴り方を教え、そして保護者や警察に抑え込まれている未来の自分自身が見えた。

だから衝動をおさえることができた。

私の中にある少しの「客観性」が私を救った。

ドグラ・マグラ

客観性のあるなしが「変なおじさん」かそうでないかの分かれ目である、ということを発見したのは、私が19才のころだ。

私は高校から20才くらいまで、文学青年だった。

その時、読んだ「ドグラ・マグラ」で客観性のことに少しだけ気づいた。

内容がヤバすぎたのたので怖くなって、途中で読むのを止めた。

なぜ読むのを止めたのか。

それは、「ドグラ・マグラ」が頭がおかしくなった主人公の主観で書かれていたからだ。

ずっと頭のおかしい思考を体験させられる。

読み進めると自分自身も頭がおかしくなったように感じてきたのだ。

「ドグラ・マグラ」の冒頭部分

「ドグラ・マグラ」の一節はこんな感じだ。

主人公は精神病院で目を覚ました。

自分のことがわからず、なぜ精神病院にいるのかを知りたい主人公が、食事を運んできた女性の手を掴んで自分の状況について聞く。

その時の描写を引用する。

向うの入口の扉の横に、床とスレスレに取付けてある小さな切戸が開いて、何やら白い食器と、銀色の皿を載せた白木の膳が這入って来るようである。
それを見た瞬間に、私は何かしらハッとさせられた。無意識のうちに今朝からの疑問の数々が頭の中で活躍し初めたのであろう。・・・・・・吾を忘れて立上った。爪先走りに切戸の傍に駆け寄って、白木の膳を差し入れている、赤い、丸々と肥った女の腕を狙いすまして無手と引っ掴んだ。・・・・・・と・・・・・・お膳とトースト麺麭(パン)と、野菜サラダの皿と、牛乳の瓶とがガラガラと床の上に落ち転がった。
私はシャ嗄(が)れた声を振り絞った。
「・・・・・・どうぞ・・・・・・どうぞ教えてください。僕は・・・・・・僕の名前は、何というのですか」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
相手は身動き一つしなかった。白い袖口から出ている冷めたい赤大根みたような二の腕が、私の左右の手の下で見る見る紫色になって行った。
「・・・・・・僕は・・・・・・僕の名前は・・・・・・何というのですか。・・・・・・僕は狂人でも・・・・・・何でもない・・・・・・」
「・・・・・・アレエーーッ・・・・・・」
という若い女の悲鳴が切戸の外で起った。私に掴まれた紫色の腕が、力なく藻掻(もが)き初めた。
「・・・・・・誰か・・・・・・誰か来て下さい。七号の患者さんが・・・アレッ。誰か来てェーーッ・・・・・・」
「・・・・・・シッシッ。静かに静かに・・・・・・黙って下さい。僕は誰ですか。ここは・・・・・・今はいつ・・・・・・ドコなんですか・・・・・・どうぞ・・・・・・ここは・・・・・・そうすれば離します・・・・・・」
・・・・・・ワーーアッ・・・・・・という泣声が起った。その瞬間に私の両手の力が弛んだらしく、女の腕がスッポリと切戸の外へ抜け出したと思うと、同時に泣声がピッタリと止んで、廊下の向うの方へバタバタと走って行く足音が聞えた。
(『ドグラ・マグラ』より)

自分自身は正常だと思っているので、料理を運んできた人の手を掴んで状況を質問する。

しかし、料理を運んできた女性は怖くて逃げ出す。

この場面までは、ずっと主人公の頭の中の言葉だけで、主人公がどんな人かわからない。

読み手も主人公がどんな状況かわからないから、普通の人だと思って読み進めてしまう。

主人公の主観的な目線や考えで自分が正常だと思っているので、私もそれに感情移入していた。

だが、この場面で主人公がおかしいとわかった。

わかった理由は、正常な人(料理を持ってきた女性)と接したからだ。

それが怖かった。

あっち側に持っていかれる気がした。

この主人公はずっと自分は正常であると思っている。

奇声を上げたり、急に笑いだしたり、自分以外の他の患者に対しては「狂っている」と思っている。

ドグラマグラの冒頭部分の主人公はずっと自分は正常であると思っている。

正常であるはずはないが、客観的な視点がないから気づかない。

客観的な「変なおじさん」

「そうです、私が変なおじさんです」と言った瞬間に笑いが起きる。

それは安心から来る笑いだと思う。

なぜなら、「そうです、私が変なおじさんです」と言った瞬間、この人は「変ではない」とわかるのだ。

自分を「変」と言えるということは、「変」を知っているのだ。

自分を客観的な視点で見ている。

なぜ「変なおじさん」は笑えるのか

「変なおじさん」は、「変なおじさん」ではなく、「変なおじさん」のパロディなのだ。

志村けんの「変なおじさん」は、普通の人の感覚も知っているのである。

客観的なのである。

変なおじさんのパロディだ。

「変なおじさん」の行動を真似をすることで、本当の「変なおじさん」は自分を客観的に見ることができるし、普通の人は「変なおじさん」のことを少し理解できる。

「変」と「普通」のつなぎ役なのである。

翻訳者である。

彼の振る舞いを見て、本当の「変なおじさん」と思っていて緊張感を持って見ていたが、「そうです、私が変なおじさんです」と言った瞬間に本気バージョンでないことがわかる。

緊張が解けて、笑うのだ。

緊張と緩和で笑ってしまう。

その時の私

サッカー少年たちに「違う、違う、そうじゃない」と鈴木雅之バリに小学校に乱入たくなった時、私は本気バージョンの「変なおじさん」に変身する前の状態だ。

実際に小学校に乱入していたら、小学生たちは恐怖しか感じない。

自分の思う正義を押し付けてくる、おじさんが迫ってくる恐怖。

客観性のかけらもない状態になった時、中年男性は「変なおじさん」になる。

若い時にたっぷりあった自意識が、すべて枯れた状態だ。

自分の正義を押し付けるおじさんは山ほどいる。

みんな客観性はなくしている。

「オレの正しい考え方、思想、哲学を聞きやがれ」と言っている。

私はワークショップなどで本気バージョンの「変なおじさん」に出会った時は、できるだけ黙っている。

「こっちにくるなよ〜」と一定の距離を保つようにしている。

遠くから見ても「変なおじさん」が自分ワールドの理論を熱弁しているのがわかったりする。

独自の理論を熱弁している時、うっとりした顔をしている。

みんな黙っているから自分の理論が届いていると思っているからだ。

恐怖で声が出なかったり、嵐が過ぎ去るのを待っているだけなのに気づいていない。

そうならないために

そうならないためには、客観性だ。

とにかく客観性だ。

常に自分を外側から見つめないといけない。

客観性のテストとして常に「そうです、私は変なおじさんです」と言っていれば良いだろう。

心の中で唱えてもいいし、声に出しても良いだろう。

「そうです、私は変なおじさんです」と言った後、違和感があれば、その違和感について深く思考する。

熱弁した後に声に出して「そうです、私は変なおじさんです」と言ってみる。

周りが笑えば、本気版の変なおじさんだと思われていたんだろう。

笑いによってみんな安心したことがわかるのだ。

本気バージョンの「変なおじさん」かと思っていたが、「そうです、私は変なおじさんです」と言われて、緊張が解けて笑うのだ。

この人は「変なおじさんのパロディをやっていたのだ」と安心する。

ユーモアさえ感じてくれるだろう。

客観性は高等生物にしかないものだ。

せっかく人間に生まれたので客観性を極めてみたいと思う。

変なおじさんと客観性について

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