中の人などいない!

私は吉田修『パレード』が大好きなのだが、その中にこんなやり取りがある。

「ねぇ、直輝、あんたサトルのこと、どう思う?」
「どう思うって?」
シートの上で寝返りを打った直輝の頬に、枯れた芝生がついている。
「だから、どんな子だと思ってる?」
「別に、今どきの若者だろ」
「そう?」
「何が言いたいんだよ、さっきから」
「だからさぁ・・・・・・、あ、こう言えば分かってもらえるかな、サトルって、たとえば良介が思っているような子でもなければ、琴が思ってるような子でもなくて、もちろん直輝が想像してるような子でもないだろうし、かといって私が思っているような子でもないような気がするのよ」
私の説明を聞き終わらないうちから、直輝は呆れたとばかりに顔を逸らし、雲の間から顔を出した太陽に目を細めていた。
「そんなの当たり前だろ」
「なんで当たり前よ?」
私は直輝のお尻を蹴った。蹴られたお尻を擦りながら、ゆっくりと体を起こした彼が、「お前の知ってるサトルしか、お前は知らないんだよ」と言う。
「どういう意味よ」
「だから、お前が知ってるサトルしか、お前は知らないわけだ。同じように俺は、俺が知ってるサトルしか知らない。良介だって琴ちゃんだって、あいつらが知ってるサトルしか知らないんだよ」
「さ〜っぱり分かんない」
「だから、みんなが知ってるサトルなんて、誰も知らないんだよ。そんな奴、この世には存在しないの」
直輝はそう言うと、ランチボックスからベーコンサンドを取り出した。口の周りをケチャップで汚しながら、おいしそうに頬張っている。
「ちょっと、その訳の分からない説明で終わり?」
私はもう一度、直輝のお尻を蹴った。
「お前、マルチバースって知ってる?」
「知らない。何、それ」
「じゃあ、ユニバースは?」
「宇宙でしょ」
「そう。一つの宇宙ってこと。で、マルチバースってのは、いくつもの宇宙って意味」
「ふ〜ん」
(吉田修『パレード』)

人それぞれの宇宙があってその宇宙を通すと同じ人を見ても違った印象になるということだと思う。

もしくは、一人の中にいろんな自分がいて、接する人ごとに違った自分になる、ということかもしれない。

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私とは何か

平野啓一郎『私とは何か』には、こうある。

たとえば、会社で仕事をしているときと、家族で一緒にいるとき、私たちは同じ自分だろうか?あるいは、高校時代の友人と久しぶりに飲みに行ったり、恋人と二人きりでイチャついたりしているとき、私たちの口調や表情、態度は、随分と違っているのではないか。
(平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』)

とあって、その状態を肯定的に見ている。

分人とは、対人関係ごとの様々な自分のことである。恋人との分人、両親との分人、職場での分人、趣味の仲間との分人、・・・・・・それらは、必ずしも同じではない。

分人は、相手との反復的なコミュニケーションを通じて、自分の中に形成されてゆく、パターンとしての人格である。必ずしも直接会う人だけでなく、ネットでのみ交流する人も含まれるし、小説や音楽といった芸術、自然の風景など、人間以外の対象や環境も分人化を促す要因となり得る。

一人の人間は、複数の分人のネットワークであり、そこには「本当の自分」という中心はない。
(平野啓一郎『私とは何か 「個人」から「分人」へ』)

なんだか難しそうに感じるが、人によって持たれる印象が違うのは当然だと思う。その時の体調や環境(場所、気温とか)、年齢や性別などの違いで人の印象は変わってしまう。

昔、学生と話していて感じていたのは、最近の人は「本当の自分」という思想が強いなと感じてた。

もちろん、私の世代にも上の世代にもあると思うが、「本当の自分」以外は認めない感じがしていた。有名サッカー選手が「自分探しの旅」とか言っていたから仕方ないとも思う。

けど、自分探しをして「本当の自分」が見つからなかったり、見つかってもそれに向き合うのがツライってなったら良くないなと。特に、就活の短い時間でそうなると落ちてしまう子が多かった。かわいそうだった。

最近、Kindleで本を読むことが多いので好きな本をちょっとずつKindle化していってる。平野啓一郎『私とは何か』もKindle版を購入した。

それで思い出したのは、この本が出たときにネットで若い人たちが「楽になった」と書いていたのを思い出して、このブログにも書いておこうと思った次第です。

メモのようなブログっす。。。

個人的には、マルチバース的な考え方はすごく好きで、簡単な「多元宇宙論」の本とかも読んでたりした。絶対的な何かがあると思うよりも、もっと選択肢が多くて、ゆるいものだと考えるのがいいよね。

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